外出自粛中のそこのアナタ、こんな時こそ心穏やかにHondaの原点コミックを読みましょう。聞きましょう。見ましょう。
Vol.1 夢の始まり
1946年10月本田宗一郎は浜松市山下町に本田技術研究所(本田技研工業の前身)を開設。織機などの開発を始めたが、資金不足で行き詰ってしまう。そんなある日のこと、無線機の発電用エンジンを利用して、何か作れないかと考えていた宗一郎の頭にひらめいたものとは・・・。
Vol.2 二つの夢が出会う
自転車用補助エンジンA型が好評を得ていた1949年、Hondaにとって最初のバイク「ドリームD型」がデビュー、事業は急成長を見せていた。しかし、設立1年足らずのHondaの経営は、厳しいものだった。技術に全身全霊を傾けてしまう本田宗一郎には、経営能力があるパートナーがどうしても必要だった。
Vol.3 経営の危機マン島出場宣言
1954年本田技研工業は、折からの不況といくつかの計算違いが重なって、会社設立以来の最大の危機を迎えていた。しかし、大きな経営危機を死に物狂いで解決しながらも本田宗一郎と藤澤武夫は、マン島TTレースという新たな目標に狙いを定めていた。
Vol.4 いざアメリカへ
藤澤武夫は日本国内でバイクが売れている状況に満足せず、『世界の経済大国』アメリカへバイクを輸出するという夢を抱いていた。そして1959年、藤澤は川島喜八郎をアメリカンホンダ設立に向けて送り込んだ。しかし、Hondaにとって、アメリカ市場は予想以上に厳しいものだった。
Vol.5 来た、見た、勝った
1964年8月ドイツ。Hondaは、白い車体に赤い日の丸のマシンRA271で、日本車として初めてのF1出走を果たす。想いとは裏腹に、完走もおぼつかないレースが続く。それでも「勝つ」ために全精力を注ぐ中、社長本田宗一郎とチーム監督中村良夫の想いがぶつかり合う。
Vol.6 ~旅立ち~
夢を追いかけ続けること、人々を愛することを我々に教えてくれた本田宗一郎は、新たな夢へと向けて旅立っていった。
いや~、泣きました。
さぁどうぞ。
Honda 原点コミック 動画コミックで知る原点
6 件のコメント:
優れた技術者と優れた経営者がいたからこそ今のホンダがあるのですね。
burattoさんはたった一人で
takesanやホワイトさんの罵詈雑言に耐え
世間からあのシトは変態だという心無い声にもめげず
変態バイク道を貫いておられるとは尊敬しかありません。
本で読みました、藤沢さんがいたからこその本田宗一郎だったのですね。
ホンダのDDACデォダイナエアクーリング直接空冷はどうなったのでしょうかね?
1300Sに乗ったときはフロントヘビーでアンダーが強くタックインがすごかったのを思い出します。思ったことを実際に製品化する、この思想は本田ファンがしびれるところでした。設計変更はラインが流れてからが多かったようです。悪いところはすぐ直す、後になるほどいい製品ができた、いい時代でした。
ホンダにいつも負けていた、ヤマハファンでした。
ワタヤン、そんな恐れ多いお言葉です。
変態は変態なりに恐縮します。
ここまでこれたのは、皆さんの努力のおかげです。有難うございます。
って、オレは死ぬのか?(笑)
おお~
ホワイトさんは、あのホンダ1300に乗った事が有るんですか!ほとんど売れなかった車なのに、凄いです。
しまいにゃ~ いすゞべレルや日野コンテッサにも乗ったと言い出すんじゃ?
それにしてもヤマハファンだったとは・・・TLRに乗ってるのにね~
てか、ヤマハもエンジンだけじゃなく4輪を出して欲しかったですね。
バギーを作ってるんですから4輪なんて直ぐに作れるでしょうに。
って、今でも出して欲しいですが・・・
コンプライアンスだとか、人権とか、働き方改革とか、
夢や義理や人情ではなんともならんような時代です。
今の時代なら本田さんはどう生きたのでしょうね。
その時代にあったカリスマでないと生き残れないのでしょうか。
今のカリスマ達は50年後にカリスマで居られるでしょうか。
でも、この時代のお話は夢がありますなぁ。
Takesan、世界のホンダを作ったとんでもない人なんですが、最後までそこらの町工場の気の良いオッサンみたいな感じの人ですね~
ソニーの盛田さん、松下の幸之助さん、ホンダの宗一郎さん、みんな凄い人たちでしたね~
今更ながら尊敬申し上げます。
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