30年ほど使ってるSOARのポケットテスターなんですが、昨年頃から?スライドスイッチ(ファンクションスイッチ)が接触不良になってました。
電圧や抵抗の表示が一発で出なくなっていたのです。
で、修理しようとプラスチックケースを開けてみたのですが、金属の蓋が小さなヘキサゴンソケットスクリューで止めてあり、レンチが無くてそれ以上は分解出来ませんでした。
なら、小さなヘキサゴンソケットスクリュー用の棒レンチを探せよ!って話ですが、そこはそれ、我慢強い私は接触不良のまま使い続けていたのです。
そんな事をすっかり忘れた昨日、コメンテーターのぼ輔さんに、ダイタイソーの商品で3.0㎜~0.7㎜の精密六角棒レンチのセットが有るのだ!と教えて頂き、早速ダイタイソーに行ってきました。
有りました!
これが105円!助かるな~
1㎜だろうと思ってたんですが、1.3㎜でした。
セットで良かった!単品だったら、必至で1㎜を捜していたことでしょう。
んで、開けたら・・・
あちゃ~
スライドスイッチ(ファンクションスイッチ)の位置決めをするバネ部分が、片側折れてました。
これは接着しても駄目、修理不能なので諦めます。接点のみアルコールで拭いて組み立てます。
修理完了!
と言いたい所ですが、導通を音で知らせるブザーが鳴りません。アルコールで拭いただけでは駄目だったようです。
再び分解し、カッターナイフの刃で、バネ両端の汚れ?酸化皮膜?を削り落として再組み立て・・・
今度こそは!とテスト棒を接触させると、ピーッと音が・・・
おお~ 直った!
スイッチの位置決めバネ部分が折れてるのでタッチは悪いですが、修理完了です。
ぼ輔さん、情報有難うございました。ぼ輔さんの情報が無ければ接触不良のまま使い続けた事でしょう。
オレってそう言うタイプです。
2013年6月30日日曜日
2013年6月17日月曜日
旧山中越(志賀越)
以前から気になってる道の事です。
国土地理院 ウオッちず
オレンジの道が旧山中越(志賀越)です。
このオレンジの部分については何の疑問もないのですが、オレンジの道から分かれる黄色い道に長年疑問を感じてました。
オレンジと黄色の分岐点に立てられた案内板です。
ここから馬頭観音に向かって走ると・・・
道なりに真っ直ぐ行くと切り立った崖になり、道が途切れています。
で、バイクが向いてる方向に無理矢理階段がつけてあり、その階段を下ると・・・
馬頭観音です。
この先に道は有りません。
階段で下った僅かなスペースにぽつんと祭られているのです。
とても不自然で、これはおかしい!道が有った筈だ!と、ずーっと思ってたんです。
しかし、そうそう古い地図で確認出来る筈も無く諦めてたんですが、世の中は探せば出てくる?インターネット時代。
これです!
国際日本文化研究センター 所蔵地図データベース1931年(昭和6年)京都東北部より
思ってた通り道は繋がっていました。(青い部分が失われた道です)
これを見ると、こちらの道も旧山中越のように見え、馬頭観音が祭られている事も納得できます。
では何時頃道がなくなったのか?
比叡山ドライブウエイの開通が1958年(昭和33年)4月18日だそうですので、現在の山中越(京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線)が出来たのもその頃になる筈。
その新しい山中越に面した土地が削り取られているので、1958年以降に土砂の採取が行なわれたんじゃないかと想像します。
それも旧山中越と思われる道まで削っているところを見ると、かなり悪質で違法採取だったのかも知れません。
以前は白川砂・白川石の違法採取が多かったですから、同じような事だったのかも・・・
国土地理院 ウオッちず
オレンジの道が旧山中越(志賀越)です。
このオレンジの部分については何の疑問もないのですが、オレンジの道から分かれる黄色い道に長年疑問を感じてました。
オレンジと黄色の分岐点に立てられた案内板です。
ここから馬頭観音に向かって走ると・・・
道なりに真っ直ぐ行くと切り立った崖になり、道が途切れています。
で、バイクが向いてる方向に無理矢理階段がつけてあり、その階段を下ると・・・
馬頭観音です。
この先に道は有りません。
階段で下った僅かなスペースにぽつんと祭られているのです。
とても不自然で、これはおかしい!道が有った筈だ!と、ずーっと思ってたんです。
しかし、そうそう古い地図で確認出来る筈も無く諦めてたんですが、世の中は探せば出てくる?インターネット時代。
これです!
国際日本文化研究センター 所蔵地図データベース1931年(昭和6年)京都東北部より
思ってた通り道は繋がっていました。(青い部分が失われた道です)
これを見ると、こちらの道も旧山中越のように見え、馬頭観音が祭られている事も納得できます。
では何時頃道がなくなったのか?
比叡山ドライブウエイの開通が1958年(昭和33年)4月18日だそうですので、現在の山中越(京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線)が出来たのもその頃になる筈。
その新しい山中越に面した土地が削り取られているので、1958年以降に土砂の採取が行なわれたんじゃないかと想像します。
それも旧山中越と思われる道まで削っているところを見ると、かなり悪質で違法採取だったのかも知れません。
以前は白川砂・白川石の違法採取が多かったですから、同じような事だったのかも・・・
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そうだったのか
2013年6月12日水曜日
紫香楽宮
天平十二年(740年)九月 九州で藤原広嗣が挙兵。その日のうちに討伐軍が編成され大野東人(おおの の あずまびと)が指揮官に任命される。
同年十月二十六日、広嗣の乱の最中、大将軍大野東人に以下の勅を賜ったのち、聖武天皇は突然の東国巡幸へ。
「朕、意(おも)う所有るに縁(よ)りて、今月の末、暫(しばら)く関東に往(ゆ)かん。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これ知るとも、驚き怪しむべからず。」
伊勢(十月) → 伊賀(十一月) → 関宮(十一月) → 美濃(十一月) → 不破(十二月) → 近江国(十二月) →
十二月十五日 聖武天皇は山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)に至り、泉川(現木津川)の河畔で新京の建設に着手される。
<a href="http://blue.ap.teacup.com/buratto/92.html"><span style="color:blue">2006/08/14 撮影</span></a>
1957年7月1日、山城国分寺跡として国の史跡指定を受けたが、2007年2月6日付けで恭仁宮跡(山城国分寺跡)に変更された。
天平十四年(742年)二月 近江国甲賀郡へ通じる東北道の造成を開始。
紫香楽の地での大仏造立をこの頃までに決定されたようです。
同年八月、最初の紫香楽行幸。同年十二月、再び紫香楽へ。
天平十五年(743年)十月 紫香楽の地において大仏造立の詔を発布。
同年末に恭仁京の大極殿が完成するも、新京の建設は中止される。
天平十六年(744年)十一月十三日 紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱(たいこつちゅう)が建てられ、天皇自ら縄を引かれる。
天平十七年(745年)の年が明けると、紫香楽宮への遷都が宣言される。
が、この年の春頃から?異変が続発する。一昨年以来の大旱魃が起こり秋の稔りは絶望的になる。極度の乾燥と強い日射しから、紫香楽宮周辺の山では火災が頻発し、(平城への還都を謀る一部官人による放火との説も・・・)さらに追い打ちをかけるように4月末には美濃を中心に大地震が起こる。山火事は消えず、余震は紫香楽を揺るがし続けた。
ついに五月五日、聖武天皇は紫香楽を捨てて恭仁京へ向かい、さらに十一日には奈良平城京に戻られる。
民衆も競って平城を目指し、その行列は昼夜途切れることなく続いたとの事。
1926年(大正15年)に史跡指定されたこの場所が、紫香楽宮跡では無かった!(現在は甲賀寺跡と推定)と言う事は知っていたのですが、本当の宮跡が何処かは知らなかったんです。
で、先月の全力ツーリング!?を振り返っていたら・・・
えっ!信楽町宮町!
地名に宮の場所が残ってるやん!当時の考古学者はなにしてたん!
う~む・・・これは行かずばなるまい。
う~む・・・何も無い。
田んぼの中にある集会所へ行ってみる。
う~む・・・何も無い。
此処じゃないのかぁ?と、少し離れたところから見回してみるが
う~む・・・何も無い。
再び集会所へ行き中庭を見回す。
と・・・
有った!
集会所の倉庫?の壁に説明版が取り付けてありました。
う~む・・・天皇の宮跡なのに宮跡を示すものはこれだけか・・・
それも、集会所の中庭で分かり難いし・・・
聞けば、近くの農家の方が自費で看板を作ったり補修をしているらしい。
どうした信楽町!頑張れ信楽町!オレは信楽町が好きだ!
離宮として建設が始まったようですが、思いのほか規模が大きいようですので、聖武天皇は紫香楽京にしたかったのかも知れませんね~
たられば・・・
美濃を中心とした大地震が起こら無かったら!
平城への還都を謀る一部官人による放火?が無ければ!
奈良の東大寺は出来ず、ここ甲賀寺に大仏様が居られた事でしょーーーーーっ!
同年十月二十六日、広嗣の乱の最中、大将軍大野東人に以下の勅を賜ったのち、聖武天皇は突然の東国巡幸へ。
「朕、意(おも)う所有るに縁(よ)りて、今月の末、暫(しばら)く関東に往(ゆ)かん。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これ知るとも、驚き怪しむべからず。」
伊勢(十月) → 伊賀(十一月) → 関宮(十一月) → 美濃(十一月) → 不破(十二月) → 近江国(十二月) →
十二月十五日 聖武天皇は山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)に至り、泉川(現木津川)の河畔で新京の建設に着手される。
<a href="http://blue.ap.teacup.com/buratto/92.html"><span style="color:blue">2006/08/14 撮影</span></a>
1957年7月1日、山城国分寺跡として国の史跡指定を受けたが、2007年2月6日付けで恭仁宮跡(山城国分寺跡)に変更された。
天平十四年(742年)二月 近江国甲賀郡へ通じる東北道の造成を開始。
紫香楽の地での大仏造立をこの頃までに決定されたようです。
同年八月、最初の紫香楽行幸。同年十二月、再び紫香楽へ。
天平十五年(743年)十月 紫香楽の地において大仏造立の詔を発布。
同年末に恭仁京の大極殿が完成するも、新京の建設は中止される。
天平十六年(744年)十一月十三日 紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱(たいこつちゅう)が建てられ、天皇自ら縄を引かれる。
天平十七年(745年)の年が明けると、紫香楽宮への遷都が宣言される。
が、この年の春頃から?異変が続発する。一昨年以来の大旱魃が起こり秋の稔りは絶望的になる。極度の乾燥と強い日射しから、紫香楽宮周辺の山では火災が頻発し、(平城への還都を謀る一部官人による放火との説も・・・)さらに追い打ちをかけるように4月末には美濃を中心に大地震が起こる。山火事は消えず、余震は紫香楽を揺るがし続けた。
ついに五月五日、聖武天皇は紫香楽を捨てて恭仁京へ向かい、さらに十一日には奈良平城京に戻られる。
民衆も競って平城を目指し、その行列は昼夜途切れることなく続いたとの事。
1926年(大正15年)に史跡指定されたこの場所が、紫香楽宮跡では無かった!(現在は甲賀寺跡と推定)と言う事は知っていたのですが、本当の宮跡が何処かは知らなかったんです。
で、先月の全力ツーリング!?を振り返っていたら・・・
えっ!信楽町宮町!
地名に宮の場所が残ってるやん!当時の考古学者はなにしてたん!
う~む・・・これは行かずばなるまい。
う~む・・・何も無い。
田んぼの中にある集会所へ行ってみる。
う~む・・・何も無い。
此処じゃないのかぁ?と、少し離れたところから見回してみるが
う~む・・・何も無い。
再び集会所へ行き中庭を見回す。
と・・・
有った!
集会所の倉庫?の壁に説明版が取り付けてありました。
う~む・・・天皇の宮跡なのに宮跡を示すものはこれだけか・・・
それも、集会所の中庭で分かり難いし・・・
聞けば、近くの農家の方が自費で看板を作ったり補修をしているらしい。
どうした信楽町!頑張れ信楽町!オレは信楽町が好きだ!
離宮として建設が始まったようですが、思いのほか規模が大きいようですので、聖武天皇は紫香楽京にしたかったのかも知れませんね~
たられば・・・
美濃を中心とした大地震が起こら無かったら!
平城への還都を謀る一部官人による放火?が無ければ!
奈良の東大寺は出来ず、ここ甲賀寺に大仏様が居られた事でしょーーーーーっ!
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そうだったのか
2013年5月27日月曜日
全力ツーリング!?
疲れました。
ツーリングと言うよりもっ・・・
これって登山じゃね?状態でしてん。
先ずは三雲城跡。
大手道。
この辺りは兵の住居か?
枡形虎口と言うそうな。
城主の館が有ったと思われる一角にある古井戸。口径1m90cm、深さ6m20cm、穴太(あのう)積みだそうです。
ほぼ頂上なのに水が出るとは不思議です。
何故此処に水が出ると分かったのか?どうやって水脈を探したのか?
野洲川、国道1号線、JR草津線、旧東海道が見えます。
少し上った郭から北東方向を望む。
尖がった三角は三上山(近江富士)です。
八丈岩(見張り台だそうです)
突然ですが、近くの道路にはステアケースが設定されてました。
時間が有れば練習するんですが、腹が減って先を急いでましたので・・・
ここで昼食です。
ちょうど神饌物の田植えが終わったところのようでした。
20品目幕の内です。
このカラ揚げは入れないほうが良いかも・・・
神社に有ったセンバコキじゃなくって、ミノル式イネコキです。
んで、三雲城で疲れたので帰るつもりだったのですが・・・
此処へはバイクに乗り始めた頃に(TY50?)来たんですが、歩いてまで上ろうとは思わず引き返しました。
今日も引き返す気満々だったのですが、入り口の横に新たな舗装路が・・・
だったら上るでしょうと終点まで走りました。
ほぼ頂上まで上ったのかな?
げっ!キツイ!
後から分かったのですが、新たな車道は僅かしか上ってないようです。
お、お地蔵さま~
し、し、しんどいんですけどぉ。
み、見えた!みたいな~
おお~!みたいな~
着いた!みたいな~
拝殿です。
ちゅうか、本殿の撮影を忘れました。
現在は飯道神社しか残ってませんが、明治の神仏分離までは、この辺り一体に飯道寺の僧房が立ち並んでいたそうです。
見学が終わったのでそろそろ下りましょう。
子供の頃だったら笑いながら走り下ったような道なんですが、もう駄目!
下り始めたらドンドン膝が痛くなってきました。
痛みをこらえながら必死で下りTLRに跨る。
ああ楽ちん・・・
もうこれ以上歩けんもんね~
と県道に出て帰りかけたのですが・・・
道端に信楽焼きの窯跡(中井出古窯跡)が有ったのでちょっと見学。
今でこそ広い道路が出来て道端になってますが、今の道がなければ山の中。こんな所にポツンと窯が・・・今の感覚では、なぜ此処なのかさっぱり分かりません。
てか、撮影の為にバイクを止めたら、スタンドがめり込んでバイクがコケましたーーーーーっ!
さぁ、本気で帰ります。
とは言うものの、何時ものクルミ沢で・・・
頃合に溶けたアイスを美味しく頂きました。
アイスを食べた場所のクルミの枝が切られ、巻き付いていたキウイのツルが一部垂れ下がっていました。
今年は野キウイを収穫できるのかぁ?
ツーリングと言うよりもっ・・・
これって登山じゃね?状態でしてん。
先ずは三雲城跡。
大手道。
この辺りは兵の住居か?
枡形虎口と言うそうな。
城主の館が有ったと思われる一角にある古井戸。口径1m90cm、深さ6m20cm、穴太(あのう)積みだそうです。
ほぼ頂上なのに水が出るとは不思議です。
何故此処に水が出ると分かったのか?どうやって水脈を探したのか?
野洲川、国道1号線、JR草津線、旧東海道が見えます。
少し上った郭から北東方向を望む。
尖がった三角は三上山(近江富士)です。
八丈岩(見張り台だそうです)
突然ですが、近くの道路にはステアケースが設定されてました。
時間が有れば練習するんですが、腹が減って先を急いでましたので・・・
ここで昼食です。
ちょうど神饌物の田植えが終わったところのようでした。
20品目幕の内です。
このカラ揚げは入れないほうが良いかも・・・
神社に有ったセンバコキじゃなくって、ミノル式イネコキです。
んで、三雲城で疲れたので帰るつもりだったのですが・・・
此処へはバイクに乗り始めた頃に(TY50?)来たんですが、歩いてまで上ろうとは思わず引き返しました。
今日も引き返す気満々だったのですが、入り口の横に新たな舗装路が・・・
だったら上るでしょうと終点まで走りました。
ほぼ頂上まで上ったのかな?
げっ!キツイ!
後から分かったのですが、新たな車道は僅かしか上ってないようです。
お、お地蔵さま~
し、し、しんどいんですけどぉ。
み、見えた!みたいな~
おお~!みたいな~
着いた!みたいな~
拝殿です。
ちゅうか、本殿の撮影を忘れました。
現在は飯道神社しか残ってませんが、明治の神仏分離までは、この辺り一体に飯道寺の僧房が立ち並んでいたそうです。
見学が終わったのでそろそろ下りましょう。
子供の頃だったら笑いながら走り下ったような道なんですが、もう駄目!
下り始めたらドンドン膝が痛くなってきました。
痛みをこらえながら必死で下りTLRに跨る。
ああ楽ちん・・・
もうこれ以上歩けんもんね~
と県道に出て帰りかけたのですが・・・
道端に信楽焼きの窯跡(中井出古窯跡)が有ったのでちょっと見学。
今でこそ広い道路が出来て道端になってますが、今の道がなければ山の中。こんな所にポツンと窯が・・・今の感覚では、なぜ此処なのかさっぱり分かりません。
てか、撮影の為にバイクを止めたら、スタンドがめり込んでバイクがコケましたーーーーーっ!
さぁ、本気で帰ります。
とは言うものの、何時ものクルミ沢で・・・
頃合に溶けたアイスを美味しく頂きました。
アイスを食べた場所のクルミの枝が切られ、巻き付いていたキウイのツルが一部垂れ下がっていました。
今年は野キウイを収穫できるのかぁ?
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