天平十二年(740年)九月 九州で藤原広嗣が挙兵。その日のうちに討伐軍が編成され大野東人(おおの の あずまびと)が指揮官に任命される。
同年十月二十六日、広嗣の乱の最中、大将軍大野東人に以下の勅を賜ったのち、聖武天皇は突然の東国巡幸へ。
「朕、意(おも)う所有るに縁(よ)りて、今月の末、暫(しばら)く関東に往(ゆ)かん。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これ知るとも、驚き怪しむべからず。」
伊勢(十月) → 伊賀(十一月) → 関宮(十一月) → 美濃(十一月) → 不破(十二月) → 近江国(十二月) →
十二月十五日 聖武天皇は山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)に至り、泉川(現木津川)の河畔で新京の建設に着手される。
<a href="http://blue.ap.teacup.com/buratto/92.html"><span style="color:blue">2006/08/14 撮影</span></a>
1957年7月1日、山城国分寺跡として国の史跡指定を受けたが、2007年2月6日付けで恭仁宮跡(山城国分寺跡)に変更された。
天平十四年(742年)二月 近江国甲賀郡へ通じる東北道の造成を開始。
紫香楽の地での大仏造立をこの頃までに決定されたようです。
同年八月、最初の紫香楽行幸。同年十二月、再び紫香楽へ。
天平十五年(743年)十月 紫香楽の地において大仏造立の詔を発布。
同年末に恭仁京の大極殿が完成するも、新京の建設は中止される。
天平十六年(744年)十一月十三日 紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱(たいこつちゅう)が建てられ、天皇自ら縄を引かれる。
天平十七年(745年)の年が明けると、紫香楽宮への遷都が宣言される。
が、この年の春頃から?異変が続発する。一昨年以来の大旱魃が起こり秋の稔りは絶望的になる。極度の乾燥と強い日射しから、紫香楽宮周辺の山では火災が頻発し、(平城への還都を謀る一部官人による放火との説も・・・)さらに追い打ちをかけるように4月末には美濃を中心に大地震が起こる。山火事は消えず、余震は紫香楽を揺るがし続けた。
ついに五月五日、聖武天皇は紫香楽を捨てて恭仁京へ向かい、さらに十一日には奈良平城京に戻られる。
民衆も競って平城を目指し、その行列は昼夜途切れることなく続いたとの事。
1926年(大正15年)に史跡指定されたこの場所が、紫香楽宮跡では無かった!(現在は甲賀寺跡と推定)と言う事は知っていたのですが、本当の宮跡が何処かは知らなかったんです。
で、先月の全力ツーリング!?を振り返っていたら・・・
えっ!信楽町宮町!
地名に宮の場所が残ってるやん!当時の考古学者はなにしてたん!
う~む・・・これは行かずばなるまい。
う~む・・・何も無い。
田んぼの中にある集会所へ行ってみる。
う~む・・・何も無い。
此処じゃないのかぁ?と、少し離れたところから見回してみるが
う~む・・・何も無い。
再び集会所へ行き中庭を見回す。
と・・・
有った!
集会所の倉庫?の壁に説明版が取り付けてありました。
う~む・・・天皇の宮跡なのに宮跡を示すものはこれだけか・・・
それも、集会所の中庭で分かり難いし・・・
聞けば、近くの農家の方が自費で看板を作ったり補修をしているらしい。
どうした信楽町!頑張れ信楽町!オレは信楽町が好きだ!
離宮として建設が始まったようですが、思いのほか規模が大きいようですので、聖武天皇は紫香楽京にしたかったのかも知れませんね~
たられば・・・
美濃を中心とした大地震が起こら無かったら!
平城への還都を謀る一部官人による放火?が無ければ!
奈良の東大寺は出来ず、ここ甲賀寺に大仏様が居られた事でしょーーーーーっ!
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