2013年6月14日金曜日

此処をこうこうこう

ですから~

初心者ラインわぁ・・・


此処を・・・


こうこうこう。


此処を・・・


こうこうこう。


此処を・・・


こうこうこうです。

分かりましたねっ!


2013年6月12日水曜日

紫香楽宮

天平十二年(740年)九月 九州で藤原広嗣が挙兵。その日のうちに討伐軍が編成され大野東人(おおの の あずまびと)が指揮官に任命される。
同年十月二十六日、広嗣の乱の最中、大将軍大野東人に以下の勅を賜ったのち、聖武天皇は突然の東国巡幸へ。

 「朕、意(おも)う所有るに縁(よ)りて、今月の末、暫(しばら)く関東に往(ゆ)かん。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これ知るとも、驚き怪しむべからず。」

伊勢(十月) → 伊賀(十一月) → 関宮(十一月) → 美濃(十一月) → 不破(十二月) → 近江国(十二月) →

十二月十五日 聖武天皇は山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)に至り、泉川(現木津川)の河畔で新京の建設に着手される。


<a href="http://blue.ap.teacup.com/buratto/92.html"><span style="color:blue">2006/08/14 撮影</span></a>
1957年7月1日、山城国分寺跡として国の史跡指定を受けたが、2007年2月6日付けで恭仁宮跡(山城国分寺跡)に変更された。


天平十四年(742年)二月 近江国甲賀郡へ通じる東北道の造成を開始。
紫香楽の地での大仏造立をこの頃までに決定されたようです。
同年八月、最初の紫香楽行幸。同年十二月、再び紫香楽へ。

天平十五年(743年)十月 紫香楽の地において大仏造立の詔を発布。
同年末に恭仁京の大極殿が完成するも、新京の建設は中止される。

天平十六年(744年)十一月十三日 紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱(たいこつちゅう)が建てられ、天皇自ら縄を引かれる。

天平十七年(745年)の年が明けると、紫香楽宮への遷都が宣言される。
が、この年の春頃から?異変が続発する。一昨年以来の大旱魃が起こり秋の稔りは絶望的になる。極度の乾燥と強い日射しから、紫香楽宮周辺の山では火災が頻発し、(平城への還都を謀る一部官人による放火との説も・・・)さらに追い打ちをかけるように4月末には美濃を中心に大地震が起こる。山火事は消えず、余震は紫香楽を揺るがし続けた。

ついに五月五日、聖武天皇は紫香楽を捨てて恭仁京へ向かい、さらに十一日には奈良平城京に戻られる。
民衆も競って平城を目指し、その行列は昼夜途切れることなく続いたとの事。


1926年(大正15年)に史跡指定されたこの場所が、紫香楽宮跡では無かった!(現在は甲賀寺跡と推定)と言う事は知っていたのですが、本当の宮跡が何処かは知らなかったんです。
で、先月の全力ツーリング!?を振り返っていたら・・・


えっ!信楽町宮町!

地名に宮の場所が残ってるやん!当時の考古学者はなにしてたん!
う~む・・・これは行かずばなるまい。


う~む・・・何も無い。
田んぼの中にある集会所へ行ってみる。
う~む・・・何も無い。
此処じゃないのかぁ?と、少し離れたところから見回してみるが
う~む・・・何も無い。
再び集会所へ行き中庭を見回す。
と・・・


有った!
集会所の倉庫?の壁に説明版が取り付けてありました。


う~む・・・天皇の宮跡なのに宮跡を示すものはこれだけか・・・
それも、集会所の中庭で分かり難いし・・・
聞けば、近くの農家の方が自費で看板を作ったり補修をしているらしい。
どうした信楽町!頑張れ信楽町!オレは信楽町が好きだ!

離宮として建設が始まったようですが、思いのほか規模が大きいようですので、聖武天皇は紫香楽京にしたかったのかも知れませんね~


たられば・・・

美濃を中心とした大地震が起こら無かったら!
平城への還都を謀る一部官人による放火?が無ければ!
奈良の東大寺は出来ず、ここ甲賀寺に大仏様が居られた事でしょーーーーーっ!


2013年5月27日月曜日

全力ツーリング!?

疲れました。
ツーリングと言うよりもっ・・・
これって登山じゃね?状態でしてん。


先ずは三雲城跡。


大手道。


この辺りは兵の住居か?


枡形虎口と言うそうな。


城主の館が有ったと思われる一角にある古井戸。口径1m90cm、深さ6m20cm、穴太(あのう)積みだそうです。
ほぼ頂上なのに水が出るとは不思議です。
何故此処に水が出ると分かったのか?どうやって水脈を探したのか?


野洲川、国道1号線、JR草津線、旧東海道が見えます。


少し上った郭から北東方向を望む。
尖がった三角は三上山(近江富士)です。


八丈岩(見張り台だそうです)


突然ですが、近くの道路にはステアケースが設定されてました。
時間が有れば練習するんですが、腹が減って先を急いでましたので・・・


ここで昼食です。
ちょうど神饌物の田植えが終わったところのようでした。


20品目幕の内です。
このカラ揚げは入れないほうが良いかも・・・


神社に有ったセンバコキじゃなくって、ミノル式イネコキです。

んで、三雲城で疲れたので帰るつもりだったのですが・・・


此処へはバイクに乗り始めた頃に(TY50?)来たんですが、歩いてまで上ろうとは思わず引き返しました。
今日も引き返す気満々だったのですが、入り口の横に新たな舗装路が・・・


だったら上るでしょうと終点まで走りました。
ほぼ頂上まで上ったのかな?


げっ!キツイ!
後から分かったのですが、新たな車道は僅かしか上ってないようです。


お、お地蔵さま~
し、し、しんどいんですけどぉ。


み、見えた!みたいな~


おお~!みたいな~


着いた!みたいな~


拝殿です。
ちゅうか、本殿の撮影を忘れました。


現在は飯道神社しか残ってませんが、明治の神仏分離までは、この辺り一体に飯道寺の僧房が立ち並んでいたそうです。

見学が終わったのでそろそろ下りましょう。

子供の頃だったら笑いながら走り下ったような道なんですが、もう駄目!
下り始めたらドンドン膝が痛くなってきました。

痛みをこらえながら必死で下りTLRに跨る。
ああ楽ちん・・・
もうこれ以上歩けんもんね~
と県道に出て帰りかけたのですが・・・


道端に信楽焼きの窯跡(中井出古窯跡)が有ったのでちょっと見学。
今でこそ広い道路が出来て道端になってますが、今の道がなければ山の中。こんな所にポツンと窯が・・・今の感覚では、なぜ此処なのかさっぱり分かりません。

てか、撮影の為にバイクを止めたら、スタンドがめり込んでバイクがコケましたーーーーーっ!

さぁ、本気で帰ります。


とは言うものの、何時ものクルミ沢で・・・


頃合に溶けたアイスを美味しく頂きました。


アイスを食べた場所のクルミの枝が切られ、巻き付いていたキウイのツルが一部垂れ下がっていました。
今年は野キウイを収穫できるのかぁ?