2011年4月27日水曜日

第三万七千六百三十二回 全日本独走の御知らせ

今年も 独走の季節と相成り候
皐月の爽やかなる風の中 時速三百㎞にてのんびり走る所存


決行の日取りは 平成二十三年五月三日(四つ時)何時もの油屋にて給油の後 近江の国某所を行脚予定
彼の地は少しばかり高所なれば 前回の行脚は逸り過ぎやも知れず タラの芽は今が旬かと思わるる  ルル三錠
楽しみがいや増して御座候

ほな


2011年4月24日日曜日

トンネルが掘れなくて

現在、京都駅から山科駅までの所要時間は5分ほど。トンネルを抜けるたら、もう山科です。

しかし、東山トンネルが出来るまではかなり遠回りだったようです。京都駅を出た列車は東山を避けて南へ、稲荷山を周り込むように東へ向きを変え、やっと山科へ。

当時の山科駅は外環状線と名神の交差した辺りに在り、その頃の山科の中心地(旧三条通りの安祥寺通りから四宮辺りか?)から歩くと30分はかかりそう。
さらに山科駅から京都駅までの乗車時間を30分と見積もると、山科中心部から京都駅までは1時間ほどかかったかも知れません。


明治45年測図 2万分の1地形図 部分 大津街道│神谷ホームページさんでお借りしてきました。

1879年8月18日に京都~大谷間で仮開業したこの路線は、1921年8月1日の新線(現在の東海道本線)開業まで使われ、残された路線の京都~深草間は奈良線に転用。深草から名神高速大津インター入口辺り(大津駅、膳所間)までの路線は完全に廃線となり、後に名神高速道路(一部一般道)になりました。


Yahoo!の航空写真です。

航空写真だと路線跡が良くわかります。凄い時代ですね。


<25日追記>
1932年(昭和7年)京都東南部:国際日本文化研究センター所蔵地図
昭和7年版ですので、旧東海道線は既に廃線になっているのですが、廃線跡がハッキリ載っています。数回クリックして拡大してご覧ください。


2011年4月23日土曜日

トンネルの掘り方

1970年頃の山科疏水諸羽船溜りです。
1960年代の中頃までだったでしょうか、夏になると疏水の舟溜りが子供たちのプールになっていました。
四宮(一灯園)の舟溜りが音羽小学校で、この諸羽の舟溜りが山階小学校のプール代わりでした。
しかし、湖西線の工事により四宮~諸羽間は埋め立てられ、現在は諸羽疏水公園になっています。

残念ながら、もうこの景色を見ることは出来ません。


Y原氏撮影

知り合いのお父上が疏水の研究をされている方なので、私如きが疏水について語るのはどうかと思うのですが、トンネルの掘り方で「おーっ!」と思うことが有ったので書こうかなと・・・

両側からトンネルを掘っていったとして、どうして曲がらずに掘れるのか?真っ暗な穴の中でどうして途中で出会う事が出来るのか?
少しでもズレてたら、すれ違ったまま堀り続ける事になる筈なんですが・・・
疑問に思った事は無いですか?

と言う事で、タイトルの「トンネルの掘り方」です。(疑問を持った人だけ読みましょう)


第3トンネル西口 1885年頃 京都府立総合資料館蔵

写真の真ん中手前に旗が立ってます。この土台が測量標石で、山の中央の木が切られている所の頂上にも同じ測量標石が有って、目印の旗が立っています。
で、トンネルの両側とも、手前の旗から山の上の目印の旗まで、一直線に穴を掘っていたんですね~
これで、確実に出会える。かしこっ!

2400m以上ある第1トンネルは、当時日本最長のトンネルでした。
このトンネルが掘られるまで日本にトンネルの掘削技術はなく、このトンネルの成功によって、東海道本線の東山トンネルを始め、多くのトンネルが掘られるようになったそうです。


2008年11月13日撮影

小関峠から少し上った所に残っている、第1トンネルの測量標石です。

以上!
「おーっ! 」っと、思った事でした。