♪ いやんバカンス んふ~ん
そこはお耳なのぉ んふ~ん
いやんバカンス んふ~ん
そこはおへそなのぉ んふ~ん
そうだ!
夏はバカンスだ!
ツーリングだ!
8月16日にサルナシ狩りに行こう!
お盆を過ぎれば、流石の新型コロナも終息が見えていることだろう。
そうだそうだ、そうに決まってる!
午前10時に何時ものスタンドでガソリンを入れてと・・・
あの道からあの道を通ってあの林道か・・・
いや~楽しみ楽しみ。
2020年5月1日金曜日
ホームページビルダー13に絶望の淵に落とされた話
私のパソコンには、ホームページ・ビルダー13と19が入ってるんですが、ホームページは19で作ってます。
何時も通り新しいニュースに更新しようと、ニュース記事のタイトルをドラッグしたところ、何故かホームページビルダーが終了してしまいました。
なんでやねん!
と、何度やってもドラッグすると終了。
くそっ!なんでや!
と、ホームページ・ビルダー13でページを開いたところ下の画面が出ました。
オッケーと安易にクリックし、新しい記事をドラッグしてリンクを張ります。
で、エクスプローラーで確認してみると・・・
あっ!あああ・・・
横線の隙間と行間が詰まってる!
何をするねん!
何が「エラーが検出されましたので、修正しました。」や!
お前がエラーを起こしてるやないか!
えらいこっちゃ・・・
もう元には戻らん・・・
外付けハードディスクから古いデータを引っ張り出しプリント。
13で開いてエラー修正をさせてプリント。
見比べます・・・
HTML文書の最初の記述が変わってたので、古いページのHTMLをコピーし入れ替えてみる。
ふ~ 何とか元通りに見える。良かった・・・
更新しとこ・・・
ホームページ・ビルダー13を信用したオレがアホやった。
クリック1秒 後悔数時間やな~
何時も通り新しいニュースに更新しようと、ニュース記事のタイトルをドラッグしたところ、何故かホームページビルダーが終了してしまいました。
なんでやねん!
と、何度やってもドラッグすると終了。
くそっ!なんでや!
と、ホームページ・ビルダー13でページを開いたところ下の画面が出ました。
オッケーと安易にクリックし、新しい記事をドラッグしてリンクを張ります。
で、エクスプローラーで確認してみると・・・
あっ!あああ・・・
横線の隙間と行間が詰まってる!
何をするねん!
何が「エラーが検出されましたので、修正しました。」や!
お前がエラーを起こしてるやないか!
えらいこっちゃ・・・
もう元には戻らん・・・
外付けハードディスクから古いデータを引っ張り出しプリント。
13で開いてエラー修正をさせてプリント。
見比べます・・・
HTML文書の最初の記述が変わってたので、古いページのHTMLをコピーし入れ替えてみる。
ふ~ 何とか元通りに見える。良かった・・・
更新しとこ・・・
ホームページ・ビルダー13を信用したオレがアホやった。
クリック1秒 後悔数時間やな~
2020年4月30日木曜日
Honda 原点コミック 動画コミックで知る原点
外出自粛中のそこのアナタ、こんな時こそ心穏やかにHondaの原点コミックを読みましょう。聞きましょう。見ましょう。
Vol.1 夢の始まり
1946年10月本田宗一郎は浜松市山下町に本田技術研究所(本田技研工業の前身)を開設。織機などの開発を始めたが、資金不足で行き詰ってしまう。そんなある日のこと、無線機の発電用エンジンを利用して、何か作れないかと考えていた宗一郎の頭にひらめいたものとは・・・。
Vol.2 二つの夢が出会う
自転車用補助エンジンA型が好評を得ていた1949年、Hondaにとって最初のバイク「ドリームD型」がデビュー、事業は急成長を見せていた。しかし、設立1年足らずのHondaの経営は、厳しいものだった。技術に全身全霊を傾けてしまう本田宗一郎には、経営能力があるパートナーがどうしても必要だった。
Vol.3 経営の危機マン島出場宣言
1954年本田技研工業は、折からの不況といくつかの計算違いが重なって、会社設立以来の最大の危機を迎えていた。しかし、大きな経営危機を死に物狂いで解決しながらも本田宗一郎と藤澤武夫は、マン島TTレースという新たな目標に狙いを定めていた。
Vol.4 いざアメリカへ
藤澤武夫は日本国内でバイクが売れている状況に満足せず、『世界の経済大国』アメリカへバイクを輸出するという夢を抱いていた。そして1959年、藤澤は川島喜八郎をアメリカンホンダ設立に向けて送り込んだ。しかし、Hondaにとって、アメリカ市場は予想以上に厳しいものだった。
Vol.5 来た、見た、勝った
1964年8月ドイツ。Hondaは、白い車体に赤い日の丸のマシンRA271で、日本車として初めてのF1出走を果たす。想いとは裏腹に、完走もおぼつかないレースが続く。それでも「勝つ」ために全精力を注ぐ中、社長本田宗一郎とチーム監督中村良夫の想いがぶつかり合う。
Vol.6 ~旅立ち~
夢を追いかけ続けること、人々を愛することを我々に教えてくれた本田宗一郎は、新たな夢へと向けて旅立っていった。
いや~、泣きました。
さぁどうぞ。
Honda 原点コミック 動画コミックで知る原点
Vol.1 夢の始まり
1946年10月本田宗一郎は浜松市山下町に本田技術研究所(本田技研工業の前身)を開設。織機などの開発を始めたが、資金不足で行き詰ってしまう。そんなある日のこと、無線機の発電用エンジンを利用して、何か作れないかと考えていた宗一郎の頭にひらめいたものとは・・・。
Vol.2 二つの夢が出会う
自転車用補助エンジンA型が好評を得ていた1949年、Hondaにとって最初のバイク「ドリームD型」がデビュー、事業は急成長を見せていた。しかし、設立1年足らずのHondaの経営は、厳しいものだった。技術に全身全霊を傾けてしまう本田宗一郎には、経営能力があるパートナーがどうしても必要だった。
Vol.3 経営の危機マン島出場宣言
1954年本田技研工業は、折からの不況といくつかの計算違いが重なって、会社設立以来の最大の危機を迎えていた。しかし、大きな経営危機を死に物狂いで解決しながらも本田宗一郎と藤澤武夫は、マン島TTレースという新たな目標に狙いを定めていた。
Vol.4 いざアメリカへ
藤澤武夫は日本国内でバイクが売れている状況に満足せず、『世界の経済大国』アメリカへバイクを輸出するという夢を抱いていた。そして1959年、藤澤は川島喜八郎をアメリカンホンダ設立に向けて送り込んだ。しかし、Hondaにとって、アメリカ市場は予想以上に厳しいものだった。
Vol.5 来た、見た、勝った
1964年8月ドイツ。Hondaは、白い車体に赤い日の丸のマシンRA271で、日本車として初めてのF1出走を果たす。想いとは裏腹に、完走もおぼつかないレースが続く。それでも「勝つ」ために全精力を注ぐ中、社長本田宗一郎とチーム監督中村良夫の想いがぶつかり合う。
Vol.6 ~旅立ち~
夢を追いかけ続けること、人々を愛することを我々に教えてくれた本田宗一郎は、新たな夢へと向けて旅立っていった。
いや~、泣きました。
さぁどうぞ。
Honda 原点コミック 動画コミックで知る原点
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